「剣の先に」

 クリス・ライトフェローは、その日は朝からゼクセン騎士団長の執務室に一人籠もり、サロメより回されてきた書類に目を通して承諾のサインを走らせる仕事を黙々とこなしていた。
 騎士といえど、剣を振るうだけが仕事ではない。地位が上がるほど、雑務に神経をすり減らす時間は増えてくる。しかしそれは責任が重くなるにつれて当然のことと、ある程度はクリスも割り切っていた。
 だから、クリスが朝から数えて六度目のため息を漏らしたのは、事務仕事に嫌気がさしたからではなかった。
 ふう、と小さく吐き出した息が見えない塊となって、執務室内を重く漂っているようである。
 ペンを紙に走らせる手を止め、クリスは椅子の背もたれに、投げやり気味に体を預けた。
 ペンを置き、空いた手で軽く目元をもむ。
 今日は、朝からあまり人に会っていない。サロメが書類を持ってやって来たときに少し言葉を交わした程度で、ルイスには休暇を与えていたし、侍女は予め遠ざけてあった。
 これだけ人の多いブラス城にいるのに、と思い、ふとその考えのとりとめのなさに気づいて、クリスは苦笑いした。
 疲れを自覚する。しかしそれが、どういう疲れなのかは、あまり考えたくなかった。
 昼食の時間はとっくに過ぎていた。まだ食事を取っていなかったクリスは、気分転換のために食事を取りに行こうと決め、机上の散らかった書類を片付け始めた。
 と、廊下に通じる扉が軽くノックされた。どうせ侍女あたりがやってきたものとあまり気にとめず、クリスは顔をあげずに「入れ」と言った。
 その声に反応して、扉がゆっくりと開く。と同時に、室内に流れ込んできた香ばしい匂いに、クリスは驚いて顔をあげ、そこに見慣れた顔を見つけた。
「…パーシヴァル」
 栄えある六騎士の一人であるパーシヴァルが、両手に一つずつ籠を下げ、こちらを見て笑いかけていた。
「両手がふさがっているもので、このまま失礼します、クリス様」
 部下の意図が飲み込めず、クリスは書類をそのままに椅子から立ち上がって、軽装のパーシヴァルの出で立ちを見つめた。
 クリスの困惑を楽しむように、パーシヴァルは首を傾げて微笑している。それから、籠の一つをクリスに向かって差し出した。
「今日の私は非番でして。朝から料理に勤しんでいたので、是非その成果をクリス様に確認していただきたいと思ったのですが…。侍女に聞いたところ、まだ昼は召し上がっていないそうですね」
「ああ、そうだが…」
 悪戯っぽく、パーシヴァルは笑った。
「ブラス城内に、秘密のハイキングと行きませんか、クリス様?」
 目を見張って聞いていたクリスは、その意味を飲み込んで小さく笑いを漏らした。この男は、気晴らしが欲しかったクリスの気持ちを知っていたかのようだった。
 気づいたときには、パーシヴァルの悪戯心が移ったように、少し軽くなった心で、クリスは承諾の頷きを返していた。


「こんなところがあったのか…」
 パーシヴァルに連れられ、他の誰に見咎められることなくブラス城の城壁の上に辿り着いたクリスは、その見晴らしのよさに驚きの声をあげていた。
 今日は快晴で風もなく、視線の先まで吸い込まれるような青空が続いている。
 立ち尽くして風景に見入っているクリスの後ろで、パーシヴァルは手早く敷き布を広げ、料理を取り出している。
「我々は、自分の見回りの領域内で、一つ二つはこういう場所を知っているものですよ。人の立ち入らない、静かな自分だけの場所をね」
「しかし、城の防衛の観点からすれば危険といえるな」
 ふと騎士団長の性分に戻って呟いたクリスを見やって、パーシヴァルは黙って苦笑した。その気配を感じて振り返ったクリスも、その発言の無粋さに苦笑する。
「そういうのは、執務室に戻ってから考えることにする」
「そうして下さい。それより、召し上がってみてください。サロメ殿に教えていただいた料理です」
「ああ、いただくよ」
 パーシヴァルに勧められるまま、料理の前に腰を落ち着けて、クリスはミートパイを一つ手に取り、まだ焼きたての暖かさを宿しているそれを口にほおばった。
「いかがです?」
「…美味しい」
 己はまだ料理に手をつけず、クリスの反応を見守っていたパーシヴァルは、優しい微笑を浮かべた。
「それは光栄の至り。それを伺って安心いたしました」
 根を詰めて仕事をしていたクリスには、ことさら焼き上がったばかりのパイの味が美味しく感じられて、頃合い良く空腹を感じていたために、躊躇いなく二口、もう一口と口に運んでいく。それを見届けてから、パーシヴァルは用意してきた飲み物もクリスに渡し、それからやっと自分も食事を始めた。
 クリスが何とはなしに気恥ずかしさを感じたのは、早々と空腹を十分満たして、まだパーシヴァルがゆっくりと昼食を取っている時だった。
「ありがとう」
 ふとクリスの口からこぼれ出た言葉に、パーシヴァルはちらと目を上げたが、平静な様子で、「何がです?」と問い返した。
「あ…、つまり、食事をご馳走になった」
 器用なたちのパーシヴァルが、女である自分よりもよっぽど美味い料理を作って食事に誘ってくれたが、普段、料理などし慣れないクリスにはできない芸当だと思い至ったからの気恥ずかしさだったが、パーシヴァルはあっさりと肩をすくめた。
「そんなこと。むしろ私のほうが、後でボルス卿に知られれば殴られかねませんよ」
「ボルスに?」
 何故だ、と首をかしげているクリスを見やって、パーシヴァルは人の悪い笑みを浮かべた。
「クリス様と二人きりで、誰にも知られず、人気のない場所にいるからです」
「ば…、馬鹿っ。人聞きの悪い言い方をするな」
「他に聞いている人間は、ここにはいませんよ」
「おまえは…」
 一本取ったと言わんばかりの笑みを睨んで、クリスは微かに赤くなった頬を片手で隠し、そっぽを向いた。
「クリス様、こちらを向いていただけませんか」
「断る。また、からかわれるから」
「もうしませんよ」
「その手は食わない」
 パーシヴァルから顔を背けたまま、クリスは眼下に広がる、どこまでも続く草原を見やった。時折吹く微風が、地平線に向かって草の上を滑っていく。…その先には、焼け落ちたカラヤの村がある筈だった。
 シックスクランとの休戦協定が破綻してから、ブラス城内には常にある種の緊張感が漂っている。生死の狭間で剣を振るう者が集う場所である限り、それは当然のことだったが、そのことが余計に、クリスの苦悩を深めているようだった。
 遥かな地平線を見つめ、クリスは数秒逡巡した後、躊躇いがちに口を開いた。
「…なあ、パーシヴァル。聞いてもいいか?」
「なんなりと」
「お前は、何故この道を選んだ?何故、騎士になったのだ」
「それはまた…、いきなりですね」
 クリスの背後で、パーシヴァルが立ち上がる気配がした。そのままクリスの横に歩み寄り、クリスと同じように草原を見つめた。
「私の場合は、あまり深く考えていたわけではありませんよ。ボルス卿のように貴族の家に生まれたというわけでもありませんしね。ただ、自分の前にいくつか道が伸びていたので、自分の心に沿うものを選んだだけです」
「心に沿うもの…?」
 パーシヴァルはクリスの顔をちらと見たが、すぐに正面に視線を戻した。
「迷いがあるのですか、クリス様」
 クリスは黙って首を振った。
「騎士になったことを悔やんでいるのではない。ただ…、私は一体、何に剣を向けているのか。それを見極めたい」
 カラヤの村を襲撃して以来、クリスの脳裏には自分が斬った幼いカラヤの少年の最期が焼きついていて、容易に消えそうもなかった。
 子供を斬るために、騎士になったのではなかったと思いながら、覚悟の足りない未熟さも感じ、クリスはその複雑な糸の絡みをほぐすことができずにいた。
 全ての出来事を承知していなくとも、おそらくパーシヴァルはクリスのそんな心境を違えず理解していて、この場へと誘ったに違いなかった。
 それも未熟のうちと知りつつも、他で騎士団長の弱みを見せることのできないクリスは、パーシヴァルに悩みの一端を明かしたのだった。
 パーシヴァルは、そうですね、と呟いて腕を組み、片手で尖り気味の顎をさすった。
「我々が戦うべき相手は評議会が決定しています。我ら騎士はそれに従うのみ…ですね」
「……」
「しかし、クリス様。剣を向けた先とは反対側にあるものは、己で決められるのではありませんか?」
「剣の反対側…?」
「命を賭して、守るべきものです」
 クリスは自分より高い位置にあるパーシヴァルの横顔を見上げた。常に飄々としていて本心を明かさない男の一端に触れた気がしたが、パーシヴァルはクリスと視線を合わすことなく、まっすぐ草原を見つめている。
 ふと思い当たった気がして、クリスはそのことを口にしていた。
「…イクセの村は、この先にあるんだな」
 一度だけ、パーシヴァルに連れられて訪れたことのあるパーシヴァルの故郷。しかし小さな村は、祭りのさなかにシックスクランに襲われ、炎に包まれた。
 パーシヴァルとクリスはその場に居合わせながら、なすすべもなく焼け落ちるにまかせてしまった苦い過去があった。
「村に、一度帰ってみたらどうだ?」
 控えめなクリスの言葉に、パーシヴァルは視線を戻して、微かに笑んだようだった。
「いえ。戦いの最中ですので、ブラス城を離れるわけにはいきません」
「そうか…」
 それ以上、かける言葉が見つからず、口を閉ざしたクリスに向かって、パーシヴァルは思い出したように付け加えた。
「そうそう、クリス様。一つ言い忘れていました」
「なんだ?」
 何気なく見上げたクリスは、悪戯っぽく微笑するパーシヴァルの目を見つけた。
「先ほど、騎士は評議会に従うのみと言いましたが、それ以前に、騎士は尊敬する団長に従うものなのですよ。お忘れなく」
「パーシヴァル…」
「私は、崇拝して止まない、麗しき騎士団長の盾になりましょう。命を賭して、守るべきお方のね」
「…パーシヴァル、お前はまったく…」
 恥ずかしい奴だ、と呟いたクリスの耳が赤くなっているのを目ざとく確認したパーシヴァルは満足げに笑った。
「ですから、クリス様はもっと肩の力を抜いて、楽に構えていただかないと。…ゆっくりと、考えてくださればいいのですよ」
「……ああ、そうだな」
 クリスも小さく笑みを覗かせた。
 目の前の風景をもっとよく見ようと、クリスは一歩前に踏み出した。それと同時に、今までより強い風が吹き、クリスの銀髪を撫でて風にさらっていこうとする。
 とっさに髪のほつれを手で抑えようとして、クリスは気を変えた。複雑に結い上げた髪に手をやり、髪留めを引き抜いたのである。
 癖のない、見事な銀髪がさらさらと解け落ちた。頭を振ったクリスの動きにあわせて、陽の光がきらきらと反射する。
 クリスは思い切り伸びをして、数日振りに屈託のない笑みを滑らかな頬に浮かべた。
「お前の言うとおり、私はもう少し肩の力を抜いたほうが良さそうだな、…どうした、パーシヴァル…?」
 クリスが傍らのパーシヴァルを振り返ると、パーシヴァルは口のあたりを手で覆い、あらぬ方を見やっていた。
「…いきなり、不意打ちですか…」
「え?」
 首を傾げたクリスの動きにあわせて、背中まで達した銀髪が艶のある流れを作った。
 自覚が無さ過ぎる、と口の中で呟いておいて、パーシヴァルは何事も無かったかのように笑顔を見せた。
「いえ、何でも。それより、そろそろ戻りましょう。あまり長い時間、執務室を留守にしていると、不審に思われますからね」
「ああ、そうだな」
 クリスは頷いた。クリスは髪を簡単にまとめ直し、パーシヴァルの後片付けを手伝ったあと、二人は連れ立ってその場から立ち去ろうとした。
 先にたって歩いていたクリスの後ろで、パーシヴァルはその足を止めた。
「クリス様」
 呼びかけられて、クリスは立ち止まって振り返る。
「今日のことは、皆には秘密ですよ。二人きりで食事をしたなどと知られれば、私がボルス卿に殴られてしまいますから」
 本心とは違うことを言ってとぼけているパーシヴァルの気遣いを察して、クリスは笑って承諾した。
「ああ、言わないでおくよ。二人きりの秘密だ。…ありがとう、パーシヴァル」
「礼を申し上げるべきはこちらですよ」
「何でだ?」
「さあ、それも秘密です」
 本心から分かっていないクリスを見て、パーシヴァルは笑みを漏らした。






いかがでしょうか・・・?
クリスと、クリス様ファンクラブ(笑)もとい六騎士のなかでも、パーシヴァルとのやりとりは好きですv
パーシィちゃんとのイクセデートは、まるでアンジ○リークみたいだと思ったものでした(笑)。
ラブラブな二人を書いてみたかったのですが・・・成功しているでしょうか?
2002.11.20.

幻水のページへ戻る